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矛盾の探索と深化

"Bricolasile"に潜むもの(1)

きっかけの本『数学する身体』

日頃からいろいろと考えていて、しかしそれを文章にする意思はなかなか思考に追従しない。

思考は内面で展開されるが、号砲も転機も含めてその刺激は外部から到来する。

思考は言語を手段とするが、内面における言語展開と文章としての出力とは、何かが違うらしい。

文章にしようと思うきっかけは、いつも読書のある瞬間に訪れる。

 身体が数学をする。この何気ない一事の中に、私はとてつもない可能性に満ちた矛盾をみる。

 起源にまで遡ってみれば、数学は端から身体を超えていこうとする行為であった。数えることも測ることも、計算することも論証することも、すべては生身の身体にはない正確で、確実な知を求める欲求の産物である。曖昧で頼りない身体を乗り越える意志のないところに、数学はない

 一方で、数学はただ単に身体と対立するのでもない。数学は身体の能力を補完し、延長する営みであり、それゆえ、身体のないところに数学はない。古代においてはもちろん、現代に至ってもない、数学はいつでも「数学する身体」とともにある

 

「はじめに」 森田真生『数学する身体』新潮社

屋号のことである。

備忘録にも書いたが、"Bricolasile"(ブリコラジール)は2つの単語を合成したものだ。

すなわち、"Bricolage"(ブリコラージュ)と、"Asile"(アジール)。

この名称は明確な意図をもって作られたものではなく、直感が生みの親だ。

しかし直感はさておき、論理的な思考を立ち上げようとすると、はたと立ち止まる。

ここにはいくつもの矛盾が存在しているようである。

設計業の屋号としての、それぞれの語の矛盾。2つが組み合わされる矛盾。

人にその由来を問われて、現状、論理明快に説明できるとは到底思えない。

つまり僕は、屋号を掲げて仕事をしながら「生みの親」の意図を読み解いていく必要がある。

 

Bricolageと「ものづくり」の関係

ブリコラージュ(Bricolage)は文化人類学の用語で、「器用仕事」と訳される。

 アフリカの原住民が、狩りや採集のためにジャングルを渉猟する。

 歩いているといろんなものが視界に入る。

 動植物であったり、道端に落ちていたり、枝にひっかかっているもの。

 それらは、明確な用途をもつものと、使いみちがよくわからないものに二分される。

 原住民が抱えて歩ける荷物の量は限られている。

 しかし彼らは道中、前者だけでなく後者も、躊躇なく手荷物に加える。

 一見では価値が判断できないものを、背中に負う袋「合切袋」に放り込む。

 なぜなら、「あとで何かの役に立つかもしれないから」。

 そうして拾われた木切れが、家屋の補修や、新たな道具の素材に活かされることになる。

器用仕事。

その場にある限られた「ありもの」を工夫して、目的を達成する。

必要に迫られて、手持ちの道具に新たな機能を見出す。

目的をズバリと達成するような専一的な道具を発想しない。

僕が屋号を命名して最初に感じたのは、このBricolageと「ものづくり」の関係でした。

目的がまずあり、それを達成するために新しいものを創り出す。

既存の道具を改善して、より高機能な、高効率な、あるいは廉価な道具を開発する。

「ものづくり」は、今までにないものを生み出す営みの総称です。

敢えて言えば、「ありもの」の工夫では実現できない境地へ達するための創造。

こう表現すれば、両者が相矛盾する関係にあることがわかります。

専門家の仕事は当然、日常生活の工夫を超えるものでなければならない。

手持ちの道具と材料で要求水準の生活が成り立つなら、新しくなにかを作る必要はない。

では、どう考えればよいのか?

「ブリコラージュによるものづくり」とは、一体どんな思想なのか?

 

現代社会における「ありもの」

先に、器用仕事の説明でアフリカの原住民の例を引きました。

わかりやすい話ですが、現代社会とジャングルとでは大きく状況が異なります。

上の例において、現代に読み替えて考察すべき点は、ただ一つ。

それは、「ありもの」とは何か、それが指す対象と範囲はどこまでか、です。

…と書いてみましたが、ここでその定義をしたいわけではありません。

現代社会の「ありもの」は、粗大ごみ置き場に捨てられた家具や廃材などではない。

家の中にある家電や各種道具はもちろん、ホームセンタに陳列された商品も含む。

あるいはAmazonの膨大なネット空間のラインナップを数えてもいい。

この定義は、人によって大きく幅が出ると思います。

「考察すべき点」と言いながら、この幅の特定は大して意味を持たない。

いや、個々別々に、一人ひとりが自分の感覚と照らし合わせて考察することは重要です。

消費者であることを免れない現代人が、コンヴィヴィアリティを発揮するために。

…先を急ぎ過ぎました。今は屋号に秘められた含意が俎上に乗っているのでした。

 

「道具の生態系」

最初の引用を、したままで放り出していました。

森田氏のこの本には、今の自分の思考進路を示唆する内容が見出されます。

おそらく僕がすべき思考は抽象的なもので、数学は抽象の最たるものだからでしょう。

そしてその「数学」と、具象の権化たる「身体」が接続されるという矛盾が刺激的です。

もう一つ引用します。

 包丁を使うためには、まな板や砥石も必要である。ある道具を使っていると、その道具を使いやすくするために、また新たな道具が生み出される。そうして、相互に依存しあう道具のネットワーク、いわば「道具の生態系」ができあがっていく

 数学の場合も同様である。(…)その最も分かりやすい例が、小学校で教わる筆算だろう。(…)たとえば「36×73」を計算するところを思い浮かべてほしい。二桁どうしの掛け算だが、筆算の手順がわかっていれば、その過程で必要になるのは、一桁どうしの掛け算と足し算だけだ。(…)このアルゴリズムそのものも、インド・アラビア数字があるからこそうまくいく。先にも述べたとおり、ローマ数字で筆算をしようとすると厄介である。数字の洗練がなければ、いま私たちが知っている筆算のアルゴリズムが生まれることもなかっただろう。

 

「道具の生態系」 同上

下線を引いたのは、数学の話を展開するまえおきとして書かれた部分です。

ゆえに著者の意図には沿いませんが、そこに僕の関心は強く惹かれました。

「相互に依存しあう道具のネットワーク」、「道具の生態系」という概念。

これは既存の道具に新たな機能を発見するBricolageと繋がると思いました。

そして、きっとBricolageと「ものづくり」の橋渡しをするだろう、とも。

 

続きます。

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