前回の最後で『数学する身体』(森田真生)から「道具の生態系」の話を引きました。
これを皮切りに、今回は思考を展開していきたいと思います。
道具の生態系とコンヴィヴィアリティ
木材に釘を打つとする。
釘を打つには金槌が必要だ。
打ち損じた釘を抜くにはバール(釘抜き)があった方がいい。
打つ位置を正確に測るならノギスとマーカ(鉛筆など)も要るだろう。
道具には固有の機能があり、機能に応じた用途がある。
あるものを作り上げるためには、いくつかの工程を経る。
各工程において、加工に必要な道具を選択し、使用する。
「ものづくり」と複数の道具を仲介するのは、加工の多様性である。
ここで少し、脇道に逸れます。
前回に「コンヴィヴィアリティ」というワードを唐突に出しました。
この語の意味は社会学者のイヴァン・イリイチの定義に拠っています。
彼には『コンヴィヴィアリティのための道具』という著書があります。
その本の中では、「道具」はとても広い意味で使われている。
彼のいう「道具」は、個人が実際的な作業に用いるツール、という元の意味を越えて、
制度や法律といった、社会を律するために人間が決めたルールをも含む。
僕はこの「道具」の広義性に触れて、自分の関心から、また別の方向が見えました。
手や足や、眼や鼻も、人が利用できる「道具」だろう、と。
人体の各部位・各器官を道具と捉えた時、「道具の生態系」はその言葉のリアリティを強固に獲得します。
その「生態系」とはつまり人であって、道具の個々の働きの総和では測れないものがここに発現している。
個々の道具に意思があるわけではない、しかし人は意識して体を動かす時に、その個々に意思を通わせる。
人という生態系は、何か一つの作業ができるという以上に、あらゆる可能性を秘めた生命の駆動体である。
コンヴィヴィアリティの意味を僕なりに書くと、次のようになります。
(広義の)「道具」に使われるのではなく、主体的かつ創造的に、人が「道具」と関わることができること。
道具を「人体部位」とみなせば、「道具に使われる」「主体的に道具と関わる」の具体像を想像しやすいでしょう。
いつ終わるとも知れぬ単純作業に追われるのか、あるいは体が勝手に動くかのように躍動して野原を駆け回るのか。
このメタファは、実はとても大事なものではないかと思います。
生命力を削ぐ「道具」とプロセスの生命力
そして話は唐突に核心に触れていきます。
ブリコラージュを「ものづくり」に適用する僕の素直な感覚は、問題を孕む次の一言に尽きます。
「余計なものは、つくりたくない」。
余計とはどういうことを指すのか、と早速指摘されそうです。
実は上の話と繋がるのですが、この疑問には今の僕はこう応えることができます。
「人の生命力の根源であるコンヴィヴィアリティを弱め、減退させ、損なうもの」
そんな「もの」があるのかと問われて、即答することはできません。
狭義の道具は、状況や目的次第で、どんなものでも創造性を発揮できる使い方ができると思います。
ただ、人の努力や気遣いを無用にする「広義の道具=ある種の"システム"」は、生命力を削ぐことがある。
即答できないと言いながら直下に書いている矛盾。
「システム」を広義の道具ととらえる視点は維持が難しい証拠だ、としておきましょう。
そのような「システム」は、大きいものであれば、作る人も維持する人も数多くいます。
そういう人々や、「システム」を必要とする人々を否定したいのではありません。
他人のためを思ってつくられたものが、現に必要とされ、次々と数を増やしていく。
そうして社会が営まれている以上、「それはそういうものだ」と思う以外にない。
ただ、自分の意志に問うた時、僕はそういうものの維持や発展に加担したくはない、と思う。
正確に言えば、その仕組みや背景、本来の目的そっちのけで維持や発展のみに注力する姿勢を疑う。
最初にシステムの成立を願った人々、その構築に携わった人々には、「プロセスの躍動」がある。
この躍動が生命力と直結する意味で、システムの維持発展はその構築より困難な仕事となります。
単純に表現すれば、常にプロセスを感じる仕事をしたい、それを相手にも感じてもらいたい、と思っている。
新しいものを作る動機の一つに、未知を探求して形にしていくワクワク感があります。
けれどそのワクワク感は、ともすれば「新規のものづくり」に限定した随伴現象ではないかもしれない。
「新しさ」は世の中が基準である一方、「未知」はそれを感じる個人の経験に基づいた主観が基準だからです。
夢は希望は叶えるために持ち、追いますが、実際に叶えば、また新たな夢や希望を抱かずにはいられません。
ある大きな目的に向かう時、要所に小さな目的=通過点を設けるのは、当初のゴールを見失わないためです。
私たちは常に何かを追い続けますが、目指すものは、それを目指すためにあります。
僕はこのことを忘れずに、仕事の一つひとつにプロセスの充実が現れてくるような仕事をしたいと思っています。
ある種の「システム」や消費社会の甘言は、隙を見てはこのことを忘れさせようとはたらきかけてきます。
あまりにありふれて日常化しているこの忘却の誘惑を、正視しつつもひらりと躱す着実な方法は、「自覚」です。
再び話が逸れますが、自覚の機会は読書の間によく訪れます。
本を読むことは、自分一人で目の前の文章と向き合う、孤独な行為です。
文章は絵よりも自主的な頭の回転が要求され、静かな精神で臨むと自然と反省的な姿勢になります。
自覚は「ものの見え方が変わる」点で重要ですが、非常に主観的な契機であり、過程や方法の一般化は困難です。
宮沢賢治の生誕地・花巻で取得した司書資格を、この「読書と自覚」の観点で活かせないか、思案しています。
続きます。
次は「自覚」の話、そこからアジール(asile)の話に繋がるでしょうか。