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消費者至上主義的価値観への挑戦

本についての新しい仕事「ブックアソシエータ」(4)

久しぶりのブログ更新は、

「ブリコラジール=サンタナ鎖書店」

の司書のお仕事の話。

今日選書したひとつの鎖書の「リンク」について紹介します。

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ひとつの種明かしではあるんですが、
ここから鎖書に興味を持ってもらえるのなら、
それもまた意味のあることです。

経済的なイデオロギーとしての「自由主義」、特に「新自由主義」は、生き方の根本的な価値を選択する自由を考えていない。ホモ・エコノミクスという経済的な価値だけに生きる人間を前提としていて、価値それ自体の選択の自由を考えていない。「近代」の資本主義、共産主義という二つの体制に共通していたホモ・エコノミクスという人間像からの解放、生き方の方向性を選ぶ自由の獲得ということを通して、人間は新しい自由の地平に立つことができると思う。


見田宗介『超高層のバベル』

たとえば、こういう問題意識があると、
たまたま寄り添ったこの三冊の内容が、
お互いに感応していることに気が付く。
これは各々一冊では生じない創造です。

情報化/消費化社会をやめてしまえばいいのかというと、そういうことではなくて、むしろ情報化と消費化をラディカルに徹底させることによって解決しうる、ということが第四章の主張です。(…)情報という概念をふつうの「知識」という概念から解き放って、もっと一般的なマテリーを秩序づける原理のようなものとして考えるならば、デザインやアートや文学も情報です。そういうものから生み出されてくる。価値というのは、資源を浪費しなくても、価値を生み出しうる。典型的なのは、何十億円もするゴッホの絵に使われている絵具やキャンバスといった物質的資源はわずかなもので、何十億円のうちのほとんどが情報だけの価値です。つまり、情報という概念をデザインやアートや文学などに徹底して拡張すれば、マテリーの有限性を越えた無限の自由と幸福が可能になると思います。
 消費の概念も、そうです。(…)バタイユは、生産の至上主義を批判して、消費こそが人間の根源的なことなんだ、と主張する。パーソンズ派の社会学の用語で言うなら、コンサマトリーです。コンサマトリーは、インストゥルメンタル(道具的、手段的、何かの役に立つ)の反対語で、「それ自体が喜びである」ということです。ウィリアム・ワーズワースの「私の心は虹を見ると踊る」という言葉のように、何の役に立つということではなく、それ自体が喜びだということです。(…)バタイユが言う〈消費〉は、コンサマトリーな生き方とか感覚のことを言っていて、必ずしも商品を消費することを言っているわけではないのです。バタイユの言うように消費という概念を根源的に考えると、資源の消費や環境の汚染を必ずしも必要としない。そこから人間は無限の〈消費〉、バタイユの言う「奢侈」、贅沢をすることができる。幸福や喜びを感じることができるのですから、有限な資源と環境の世界の中で無限の喜びを感じることを可能にすることができる。つまり、情報化も消費化も強いてストップさせなくても、ラディカルに情報化も消費化も徹底すれば、世界の有限性 の中で人間は無限の幸福と喜びを感じることができる、ということです。

 

同上

「なるほど」と思えることは、日常生活におけるちょっとした「学び」あるいは「気づ き」であり、「ああ、これは考えなかったな」と思うことは、小さな喜びである。こういった経験が積み重なって、その人の知性が築かれていく。常に学び、沢山のことに気づくことで、知性はどんどん成長し、もちろん常に修正されていく。生きていることの価値とは、この変化にあるといっても過言ではない。


間違っているとはいっても、間違ったものが欲しい一般大衆がかなりいる。なんでも良いから具体的な解釈や理解が欲しい、「わからないよりはましだ」と考える人たちがいる以上、需要があるということだろう。
 しかし、繰り返すが、「わからないよりはまし」ではなく、「わかるより、わからない方がまし」なのである。抽象的にものを見ることができない人が、言葉に頼る。わからないままにしておけないのは、それだけ思考能力が衰え、単純化しないと頭に入らない、 という不安があるためだろう。これは、「わかってしまえば、もう考えなくても良い」という、思考停止の安定状態を本能的に求めているわけで、「お前はもう死んでいる」 と言われそうな状態に近い。


森博嗣『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』

究極の真理が手を逃れることを認識すると、自然法則はきわめて精巧なメタファーであることがわかるようになる。どんなメタファーでもそうだが、自然法則も、それが表すものと似ているが、いくつかの重要な点で違っている。すべての法則とその構成要素がメタファーのようなものなら、いろいろなメタファーを中心にしたいくつもの見方を築けばよい。たとえば、意味、それも人間が認識し創造する意味だけでなく、分子が担う意味にとっての意味の概念を中心にした世界観を築けばいいではないか。この「意味中心的(ロゴセントリックな)」世界観は、世界を空虚な殻から意味にあふれた場所に変える。


逆説がいたるところにあるという認識から導かれるすべての帰結の中で、人間の力がいちばん重い。人間が本当に人間になるのは、絶対の確実さや絶対の真理が消散するところだ。人間の選択の重みとともに、究極の自由、自分の世界をそれとの会話から生み出す自由が生じる。逆説の中で生きることは、 究極の贅沢だ。その点でこそ、人間は他と違うよう──最期の息を引き取るまで、いつでも──促されている。そこでは人間の選択が、世界を変える会話のきっかけになり、真剣な人間の努力が、無謀、無益、荒唐無稽といって否定されることもない。


アンドレアス・ワグナー『パラドクスだらけの生命』

鎖書の提案は、読書をたんなる「知識を得る営み」ではなく、
「新たな知を自分で創造する」こと、
そしてそれに伴う充実を味わう行為と捉えること
の提案でもあります。

では買い手は、僕の恣意的な創造に付き合わされるだけなのか。
そういう考え方もできます。
でも、できれば僕の選書は「ひとつのきっかけ」として考えてもらいたい。

ふつうは共にあるはずのないもの(=三冊の本)が、一堂に会している。
その理由を知って、「ああそうか」と納得して気が済むかもしれない。
でも、その三冊の並びに喚起力があれば「本当にそれだけか?」という問いを引き起こす。

一つの問いに対する答えが、新たな(いくつもの)問いを生み出す。
それが知の営みであり、知性の生命力の本源です。

鎖書店運営は、
消費者至上主義的価値観に対する、

この「知性の生命力」の非匿名的でグラスルーツな挑戦である、
と考えることもできます。

というのも、すべてが一点ものの鎖書を購入した貴方には、

その瞬間から「貴方だけの読み」を負託されるからです。