この人物の考えかたのなかには、外観のあらゆる部分がそうであるように、たくましい成熟と子供のような清新さとの奇妙なまじりあいがあった。けれどもとりわけ私は、自分とくらべると筋肉質で疲れを知らない彼の脚を感じるばかりでなく、なにか熱、光、風のように鋭敏な力として彼の思考を感じていた。この力というのは、観念を外部の事実のように眺め、一見まったくかけはなれたいくつかの観念のあいだに新しい絆を設けることのできる、ある稀な能力のことだった。私は彼が人間の歴史をまるで図形幾何学のように扱い、つぎの瞬間には、いろおんな数の特性について、まるで動物の種類を挙げるようにして語るのを聞いていた──あえて言えば、見ているのだった。生体細胞の結合と分裂は、論理的推論のある特殊な場合となったし、言語はその法則を天体力学のなかにもつという具合であった。
「道士よ」、これが結論でした、「見たところあなたのなかには癒しがたい理解欲があるようですから、もうこれ以上ながくこの修道院にとどまることは許されません。どうか別の道から神があなたを召されますように……」。
──その晩のうちに、私はパリ行きの汽車に乗っていました。この修道院に入ったときには道士ペトリュスという名でした。それがソゴル師の称号をもってそこを出たわけです。私はこの偽名をずっとつかっています。仲間の修道士たちが私をこう呼んだのは、私のなかに、与えられたすべての断定に少なくとも試みとして反対をとなえ、何事につけ原因と結果を、原則と帰結を、実在と偶有を入れかえようとする性向があると気づいたからでした。「ソゴル Sogol」というのは logos の逆転で、綴りかえ(アナグラム)としては少々子供じみていますし、少々気取ってもいますけれど、私は響きのよい名前を必要としていました。それにこの名前は、いままで大いに役立ってきたある思考法則を私に思いおこさせたのです。